ルナール「博物誌」 愛の眼差し




    これは観察記である。だが、あなたの知っているそれとはすこし違うかもしれない。なぜなら、彼が観察し、記す動物たちの姿は、目に映るままの姿ではないからだ。
    一度彼の瞳に映れば、あらゆる動植物たちは彼の想像力とユーモアによって、異なるものに見立てられストーリーを付けられ、詩へと変貌する。そしてその詩が持つ柔らかな文体は、動植物に対する愛情に満ちた穏やかな眼差しを感じさせる。

   例えば、こんな風に...



    栗鼠


 羽飾りだ!羽飾りだ! さよう、それに違いない。だがね、君、そいつはそんなとこへ着けるもんじゃないよ。

   


 コルセットを作るだけの材料は、ちゃんと口の中に持っている。が、なにしろ、この胴まわりじゃ……!

   

    蜥蜴


 私がもたれている石垣の割れ目からひとりでに生まれて来た子供のように、彼は私の肩に這い上がって来る。私が石垣の続きだと思っているらしい。なるほど、私はじっとしている、それに、石と同じ色の外套を着ているからである。それにしても、ちょっと私は得意である



 塀——「なんだろう、背中がぞくぞくするのは……」


 蜥蜴——「俺だい」


   この作品に載せられた短文には、挿絵が付いている。これがまた味わいがあり、彼の視線に映る美しい動物たちの姿を見せてくれているようで愉しい。短文ゆえに生まれる余白も、想像を広げる手助けとなり彼の文章から受け取るイメージを豊かにしてくれる。
   春の陽気のように温かく、優しいこの作品は寒さの厳しいこの時期にあっても、明るい日が差し、草花や土の匂いがする穏やかな日々をあなたの中に思い起こさせることだろう。

死の恐怖-小川未明『金の輪』-



死の恐怖は、その暴力性と回避不可能性にある。


 病気がちだった幼い主人公は、ある時ようやく外に出られるようになった。すると、往来の方から知らない少年が金の輪を回して走りすぎていった。気になった彼はその謎の少年を気にするようになった。しかし、何度かその少年と出会った後、高熱を出して突然死んでしまう。
 知らない顔の少年という不確定要素と、金の輪が持つ輝きの美しさは現実離れしており、母親に話しても信じてくれないところから、子供にだけ見える不思議な存在、この世ならざる者という印象を抱かせる。そして、最後に突然述べられる死の事実から、金の輪を回す少年が死神だったのではないかと思わせられ、背筋が寒くなるような心地がする。
 しかし、最も恐ろしいのは金の輪の少年が謎に包まれているにもかかわらず、主人公に警戒心を抱かせないところである。
 すべてが謎に包まれている存在に心を開く危険性を知っている私たちは、警戒心を抱き、信頼できる相手かどうかを見極める。だが、謎の少年のように警戒心の網をすり抜け、危険を感じるべき相手であることに気が付かせず、命を奪いに来るとなると、目の前にいても危険だと気づけず、出会いを避けられない。
 つまり、現れた途端に死が確定するのである。

 それは、生きていたいという意思も、殺さないでほしいという願いも無に帰す暴力性と、回避不可能性を持っていると言える。
 本作における幼い主人公の死がもたらす恐ろしさは、その唐突さにもあるが回避不可能性にあると言えるだろう。現実の死も同じである。死が訪れた途端に私たちの存在は消えるのだから、死が来たことに気づくことができない。避けることもできない。
 このような文脈からすれば、死というものの恐ろしさを非常にうまく表現している作品と言えるだろう。

現実を捨て、希望ある未来を待つ-太宰治『待つ』-




 この作品は、駅のベンチに座って何かを待ち続ける女性の内面を描いたものである。
 何かというのは作中で明かされることはない。誰かのような気がするし、そうではないような気がする。そうではないとして、何かと問われてもわからない。しかし、訪れればきっと心がぱっと明るくなるような何かではあるはずだという漠然とした期待。そして、それが訪れるという予感が語られていくのである。



 一体、私は、誰を待っているのだろう。はっきりした形のものは何も無い。ただ、もやもやしている。けれども、私は待っている。

(中略)

 もっとなごやかな、ぱっと明るい、素晴らしいもの。なんだか、わからない。たとえば、春のようなもの。いや、ちがう。青葉。五月。麦畑を流れる清水。やっぱり、ちがう。ああ、けれども私は待っているのです。胸を躍らせて待っているのだ。

(太宰治「女生徒」『待つ』角川文庫 より引用)



 本作は文庫本にして約四ページしかない。その中で、「大戦争」という言葉が二度登場し、この戦争が始まったのと同時期に彼女はベンチで誰かを待つようになった。
 つまり、彼女が待つのは終戦がもたらす平穏な生活だと考えられる。すると、もう一つ言えることがある。それは、現在に希望を見出していないということだ。今に希望がないからこそ、待つこと、つまり今を生きることを放棄し、希望ある未来を待ち続けることを選んだ。
 この作品の優れたところは、視点人物が語るこの思いにどこか共感できてしまうことである。
 駅のベンチに座って何かを待ち続けたこともなければ、大戦争が起きて居ても立ってもいられなくなったこともない。しかし、この作品を読むとその感情を知っているような気がしてしまう。それが何だったのかは思い出せない。待ち合わせ相手を待っているときかもしれないし、楽しみなイベントを心待ちにしているときかもしれない。こうした既視感を抱かせるのは、この作品が何かを待っているときの心理をうまく描き出しているからである。
 今回読み直したことで、私は高校一年の夏の暮れに、街を歩き回ったときのことを思い出した。学校や家と全く縁のない街に、自分が望む何かがあるような予感がして、身体の悲鳴を無視して心の向くままに歩き続けたときのことを。
 当時は彼女と同じように、何かの正体はわからなかったが、振り返れば今ある現実の先を求めて歩いていたのだと思う。嫌いな高校生活から早く抜け出したくて仕方がなかったあの頃、学校から解放された自分の姿に希望を抱いて、そうすれば早く大人になれるかのようにオフィスの入り乱れる街を歩いていたのだ。
 この作品を読んだ時、あなたは何を待った時のことを思い出すだろうか。もしかしたら、眠っていた記憶が呼び起こされるかもしれな
い。