現実を捨て、希望ある未来を待つ-太宰治『待つ』-




 この作品は、駅のベンチに座って何かを待ち続ける女性の内面を描いたものである。
 何かというのは作中で明かされることはない。誰かのような気がするし、そうではないような気がする。そうではないとして、何かと問われてもわからない。しかし、訪れればきっと心がぱっと明るくなるような何かではあるはずだという漠然とした期待。そして、それが訪れるという予感が語られていくのである。



 一体、私は、誰を待っているのだろう。はっきりした形のものは何も無い。ただ、もやもやしている。けれども、私は待っている。

(中略)

 もっとなごやかな、ぱっと明るい、素晴らしいもの。なんだか、わからない。たとえば、春のようなもの。いや、ちがう。青葉。五月。麦畑を流れる清水。やっぱり、ちがう。ああ、けれども私は待っているのです。胸を躍らせて待っているのだ。

(太宰治「女生徒」『待つ』角川文庫 より引用)



 本作は文庫本にして約四ページしかない。その中で、「大戦争」という言葉が二度登場し、この戦争が始まったのと同時期に彼女はベンチで誰かを待つようになった。
 つまり、彼女が待つのは終戦がもたらす平穏な生活だと考えられる。すると、もう一つ言えることがある。それは、現在に希望を見出していないということだ。今に希望がないからこそ、待つこと、つまり今を生きることを放棄し、希望ある未来を待ち続けることを選んだ。
 この作品の優れたところは、視点人物が語るこの思いにどこか共感できてしまうことである。
 駅のベンチに座って何かを待ち続けたこともなければ、大戦争が起きて居ても立ってもいられなくなったこともない。しかし、この作品を読むとその感情を知っているような気がしてしまう。それが何だったのかは思い出せない。待ち合わせ相手を待っているときかもしれないし、楽しみなイベントを心待ちにしているときかもしれない。こうした既視感を抱かせるのは、この作品が何かを待っているときの心理をうまく描き出しているからである。
 今回読み直したことで、私は高校一年の夏の暮れに、街を歩き回ったときのことを思い出した。学校や家と全く縁のない街に、自分が望む何かがあるような予感がして、身体の悲鳴を無視して心の向くままに歩き続けたときのことを。
 当時は彼女と同じように、何かの正体はわからなかったが、振り返れば今ある現実の先を求めて歩いていたのだと思う。嫌いな高校生活から早く抜け出したくて仕方がなかったあの頃、学校から解放された自分の姿に希望を抱いて、そうすれば早く大人になれるかのようにオフィスの入り乱れる街を歩いていたのだ。
 この作品を読んだ時、あなたは何を待った時のことを思い出すだろうか。もしかしたら、眠っていた記憶が呼び起こされるかもしれな
い。