ヘミングウェイ短編集『五万ドル』ー不可能を越える人間の意志ー




不可能性を越えていく意志の強さこそ人間の武器である。
ヘミングウェイ短編集の中の一作『五万ドル』という作品は、こうした人間のもつ魅力を血と汗の闘いを通じて描いた作品である。
この物語は、ボクサーのジャックがウォルコットという格上選手と試合をするものである。だが、この試合の裏では賭けが行われており、これが重要な鍵を握っている。
格上選手のウォルコットに話にならないほどの実力差をつけられているジャックは、観客、新聞記者、予想屋まして本人でさえ負けることがわかっていた。そのため、ジャックはウォルコットに五万ドルもの大金を賭け、これを機にリングを去るつもりでいたのである。
しかし、試合中に事件は起きる。なんとウォルコットはあえて反則技を食らわせ、ジャックを勝者に仕立て上げる計画を企てていたのだった。これはジャックにとって避けなければならない事態であった。その理由は五万ドルが泡と化すからだけではない。ボクシングに夢中だったために、妻と過ごす時間や娘の成長を見届ける機会を失い続けてきた彼は、今回で負けて引退し、ようやくそれを手に入れられるところだったのだ。だからこそ、この賭けに彼は必ず勝たなくてはいけなかった。
こうして、五万ドルを賭けた戦いは、家族と過ごす時間を賭けた戦いへと変貌していくのである。
そして、反則技を食らってなお「さあ、きやがれ、このまぬけめ!」と威嚇し今度はウォルコットへ反則技を決めるジャックの姿には、常識はずれの意志の強さが垣間見える。
本来、耐えられないほどの痛みを与えるからこその反則技なのであり、一度受ければノックアウトは確実。そして、ウォルコットの狙い通りジャックの反則勝ちになることは決定していたはずだった。だが、彼の中にある家族への思いとそれによる賭けへの絶対的な勝利への意志が、この決定された未来を覆したのだ。
言い換えれば、彼の思いや意志の強さは不可能性を乗り越えたのである。
こうして描かれる人間の強さと輝きにあふれたジャックの闘いは、私たちが現実と闘う時に勇気を与えてくれるだろう。