その花は、残酷さ故に美しい-梶井基次郎『桜の樹の下には』-





 公園や川沿いに桜並木を見たとき、桜の花はどうしてこんなに美しいのかと問われたなら、あなたはどのような答えを用意するだろうか。
 例えば、梶井基次郎という作家はこう答えた。


桜の樹の下には屍体が埋まっている! 

これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。

(梶井基次郎「檸檬」『桜の樹の下には』新潮文庫 より引用)




 借金による生活の困窮と、肺尖カタルという病によって人生に先が見えず、神経衰弱に陥った彼にとって世の中のあらゆるものが自分を脅かそうとしているように見えていた。それは、桜の樹も例外ではなかった。
 彼には、桜の花が魅せる美しさがこの世のものとは思えないような感覚に襲われ、その美しさを疑い、恐れるのである。だが、ある時答えを見つけ出した。桜の下には屍体が埋まっていて、木の根が生き物の生命を吸い取り、奪っているのだと。あの花は、他から奪った生命を養分にして咲き誇るからこそ美しいと考えるのだ。


 この作品の良さは、彼のこの考え方によって読んだ後に桜の樹が今までとは全く異なるものに見えるところにある。
 桜の花は風物詩として親しまれ、多くの人々に愛されている。私たちはそれに恐ろしさなど微塵も感じない。無害なただ美しい花として認識し、その美しさにのみ目を向けている。 生命である以上、他の生物から命を奪っているはずなのに、その残酷さは見ない。


 梶井基次郎は、桜の花が美しさの裏で、私たちに見えない地面の下で、命を奪う様子を極めてグロテスクかつ不快極まりない、言ってしまえば気持ち悪い表現で描く。そうして、桜の樹が隠していた残酷な事実を露呈させ、私たちに突きつけるのだ。


 その瞬間に以前の桜への認識は消え、彼の見ていた恐ろしい桜の姿が浮かび上がってくる。彼が見た美しさは華やかなものでも、趣のあるものでもない。ピンク色のネオンのように怪しげな輝きを放つ美しさである。その輝きはまるで、桜の樹が新たな養分を欲して生物をおびき寄せようと企んでいるようだ。すると、春になると桜の樹に集まる私たちの姿は、桜の樹の美しさに魅せられて自ら養分になろうとしているように思えはしないだろうか。


 この文章は、梶井基次郎の精神状態が表れているものと考えられるが、それだけではない。私たちがいかに表面的なことに囚われて本質を見抜いていないかを鋭く突いている。
 そして、私たちに快楽感情を抱かせようと媚びてくるものへの疑いを持つように、警鐘を鳴らしているのではないだろうか。

シュニッツラー『花』ー花に宿る愛ー


 

花は次第に散って行く。私は決して花に手を触れない。もし手を触れたら、指の間で粉微塵に散りうせるだろう。

(シュニッツラー『花』岩波文庫 より引用)



 本文を読み終わるころ、この一文に立ち戻ってほしい。その時、この作品を手に取りたくなってくれたら嬉しいと思う。


 視点人物の「私」は、ある日恋人が病死したことを唐突に知る。彼女が病気だったことなど知らず、この事実すら死後一週間経った後、偶然出会った彼女の叔父から知らされたのであった。怒り、憎しみ、生への嫌悪、悲しみ、慈愛、様々な感情に襲われた彼は、月日が経って新たな恋人ができても、街中をいくら歩いても、死を受け入れることや彼女の存在を忘れることができないでいた。そんな中、亡くなった彼女から自分宛てに花が送られてくる。
 このように、本作は愛する者を失った苦悩を抱える彼の心情を描いた作品である。
 この苦悩をもっとも効果的に表しているのが、タイトルにもなっている「花」なのだ。
 恋人は生前、遠距離にいる「私」に手紙と月に一度花を贈ることを習慣にしていた。病身であること最後までを告げられなかった彼女は、死の事実と激しい苦悩、彼への許しを伝える手紙を亡くなってから数か月先に届くようにし、それまで花が届き続けるようにしていた。だが、花は手紙が届いた後にも送られてきたのだ。まるで、死を悲しむ彼を心配するように。
 彼は、彼女が病を隠していたことで死に目に会えなかった。さよならさえ言えずに終わった彼にとって、送られた花は彼女の存在を感じられる唯一のものであった。また、届いた花は彼女の優しさ、温もり、自分への愛情といった様々な思いを伝えに来ているかのように思えるのだった。
 しかし、花は枯れ始めてしまう。命あるものはいつか消えていく、その儚さが一層彼に花を愛おしいものにさせ、彼女を忘れられなくなっていく。花が凋んで、落ちて、茎になっても花瓶から捨てない。失われる運命に抗うように花を大事にする。
 このようにして、「私」は彼女の自分に対する思いを花に見出し、「私」の彼女に対する思いが花に込められていくのである。つまり、その花には愛が宿っているのである。
愛によって高められた花は、テクストというフィルターを通した私たちにも、手放すことができないほど愛おしいものとなり、日々枯れていく様に痛々しさ感じさせることだろう。そして、辛くそれでいて温かな思いを受け取ることになるだろう。
 愛する者を失った「私」の心情と、「花」に愛が宿りそして枯れていくその儚さを、作品を読んで感じてほしい。
 また、本作は愛と死がテーマになっている。恋人に限らず、家族や友人、恩師といった広い意味で愛する人の死とどのように向き合うかについて考えるきっかけにもなると思う。

ヘミングウェイ短編集『五万ドル』ー不可能を越える人間の意志ー




不可能性を越えていく意志の強さこそ人間の武器である。
ヘミングウェイ短編集の中の一作『五万ドル』という作品は、こうした人間のもつ魅力を血と汗の闘いを通じて描いた作品である。
この物語は、ボクサーのジャックがウォルコットという格上選手と試合をするものである。だが、この試合の裏では賭けが行われており、これが重要な鍵を握っている。
格上選手のウォルコットに話にならないほどの実力差をつけられているジャックは、観客、新聞記者、予想屋まして本人でさえ負けることがわかっていた。そのため、ジャックはウォルコットに五万ドルもの大金を賭け、これを機にリングを去るつもりでいたのである。
しかし、試合中に事件は起きる。なんとウォルコットはあえて反則技を食らわせ、ジャックを勝者に仕立て上げる計画を企てていたのだった。これはジャックにとって避けなければならない事態であった。その理由は五万ドルが泡と化すからだけではない。ボクシングに夢中だったために、妻と過ごす時間や娘の成長を見届ける機会を失い続けてきた彼は、今回で負けて引退し、ようやくそれを手に入れられるところだったのだ。だからこそ、この賭けに彼は必ず勝たなくてはいけなかった。
こうして、五万ドルを賭けた戦いは、家族と過ごす時間を賭けた戦いへと変貌していくのである。
そして、反則技を食らってなお「さあ、きやがれ、このまぬけめ!」と威嚇し今度はウォルコットへ反則技を決めるジャックの姿には、常識はずれの意志の強さが垣間見える。
本来、耐えられないほどの痛みを与えるからこその反則技なのであり、一度受ければノックアウトは確実。そして、ウォルコットの狙い通りジャックの反則勝ちになることは決定していたはずだった。だが、彼の中にある家族への思いとそれによる賭けへの絶対的な勝利への意志が、この決定された未来を覆したのだ。
言い換えれば、彼の思いや意志の強さは不可能性を乗り越えたのである。
こうして描かれる人間の強さと輝きにあふれたジャックの闘いは、私たちが現実と闘う時に勇気を与えてくれるだろう。